報告 「さようなら原発北海道集会」に1,200名が参加 


掲載日:2013.06.04


脚本家の倉本聰さんや作家の雨宮処凛さんら5名らが呼びかけ人となっている「さようなら原発1000万人アクション北海道」は、泊原発の「再稼働」や「大間原発」の建設中止など日本全国から原発をなくすため、6月2日、ニューオータニイン札幌で「さようなら原発北海道集会」を開催し、会場あふれる約1,200名が参加しました。

呼びかけ人の麻田信二さん(北海道生活協同組合連合会会長理事)、西尾正道さん(北海道がんセンター名誉院長)、小野有五さん(北海道大学名誉教授)からの発言や、「大間原発建設反対のたたかい」として「あさこはうす」の小笠原厚子さんから報告を受けました。「あさこはうす」は、昨年10月に建設工事を再開した大間原発の敷地内にあります。小笠原厚子さんは、お母さんである熊谷あさ子さんの代から用地買収を拒否し続け、そこに「あさこはうす」を建て、大間の海と大地を守るために、大間原発の建設反対のたたかいを続けています。

また、福島第一原発事故により福島市から北海道へ自主避難し被災避難者の方でつくる「みちのく会」副会長を務めている渡邉恭一さんと、高レベル核廃棄物の「地層処分」の研究をすすめている幌延「深地層研究センター」を「核のごみ」の最終処分地にしない運動を長年、地元でつづけている「核廃棄物施設誘致に反対する道北連絡協議会」の代表委員の久世薫嗣さんからの発言がありました。

最後に「命と暮らしを守るため、子どもたちの未来のために、脱原発を実現し自然エネルギー中心の社会をつくりあげていこう」という集会アピールを参加者全員で確認しました。
集会終了後は、札幌市内を「原発いらない!」「泊を止めよう!」「子どもを守ろう!」とシュプレヒコールをしながら道行く市民へ訴えました。

 同日、東京でも芝公園23号地を会場に、「6.2つながろうフクシマ!さようなら原発集会」が開催され、7,500名が参加しています。

★集会アピールPDFへ

特別報告 「大間原発建設反対のたたかい」 あさこはうす 小笠原厚子さん
1976年に大間町は大間原発の建設を要請し、今年で37年になります。母の熊谷あさ子は、建設当初から30年間、土地を売らず大間原発に反対してきました。母は7年前に亡くなりました。当初、母の土地から原子炉は50mしか離れていない場所に計画されました。「この海を守るんだ。大間の漁師を守るんだ。この畑を、子どもたちを守るんだ」と、どんな嫌がらせ、脅迫、村八分に合いながらも、耐えて頑張ってまいりました。
ここに2003年2月の東奥日報の新聞記事があります。母の思いが良く分かると思います。少し読んでみます。
地権者の一念。炉心を動かす。マグロの海を守りたい。マグロやウニが獲れる大間の海を守りたい。本州最北端、青森県大間町に電源開発が計画している大間原発の炉心位置を、漁業に生きてきた一人の女性地権者の思いが動かした。この10年余り、電源開発や町関係者による度重なる買収の説得を拒み続けた。残った土地で、今後も漁業の傍ら野菜を作り続けると言う。「私たちの力不足もあるが、地権者の心を読み切れなかった。非常に残念だ。」電源開発の中垣社長は、2月上旬、青森県庁と大間町を訪れ、大間原発の炉心位置の変更を表明した。【小笠原さん補足:それが原子炉50mから200m移動という計画変更です】
炉心位置の計画変更は、極めて異例だけに、その表情は硬かった。買収交渉が始まったのは1990年。10aあたり200万円で順調に用地買収は進んだ。電源開発は完全買収は容易とみていた。と地元の不動産関係者は証言する。ところがそこに、炉心予定近くに1haの土地を持つ、一人の女性地権者が立ちはだかった。一人娘だったこの女性は、父親から受け継いだこの土地と、故郷、大間への愛着は人一倍強かった。13歳から漁業を始め、下北でも他所ではホタテの養殖などをしているが、「大間の海はそったらことしなくてもいい、津軽海峡が海を育ててくれる。」7年前に夫は亡くなった。「原発は、わ(私の意)をなめていた。どうせ直ぐ、土地売ると思ったんだべ。」2003年度の民営化を控え、電源開発側は炉心予定地周辺の用地買収が進まないことに焦りの色を見せ始め、着工時期を14回も延期した。大間原発を地域振興の切り札にしようとする町関係者は、昨年春頃まで連日のように女性を訪ねた。しかし、殆ど門前払い。玄関に名刺だけ置いていく町議もいた。電源開発の中垣社長も昨年2月に訪れて、女性に頭を下げた。女性宅には時には脅迫まがいのハガキが届いたり、匿名で船にいたずらをすると買収拒否を攻めたてられたりしたこともあった。そんな中で、女性の大間原発への疑問は確信へと変わっていった。「東京電力のいい加減な原発トラブル隠しや、茨城県東海村の事故を見ても分かるけど、原発は危険だ。大間で事故が起きたら、電源開発は、わ達を一生懸命面倒みてくれるのか。そんなことないべ。」中垣社長は炉心予定地変更を木村守男知事に報告した際、「計画実施がこれ以上ずるずる遅らせることは許されない」と話し、女性も加わる大間漁協は、1998年電源開発と漁業補償協定を結んでおり、原発建設に協力していく姿勢だ。ただ、女性宅をよく訪れる飲み友達は補償金を貰っているせいか表だって大きな声では言わない。炉心変更は予期していなかったわけではない。「でも、やり方が強引だ。家で食べる芋や大根は、あの畑で育てたものだ。老後の楽しみでこれからもやっていく。この時期は昼までも0℃前後で畑は凍りついたままだ。今は農作業が出来る春を待つ。」
こう記者に語っています。母は何を守りたかったか。お金ではないんです。最終的に2億円で交渉されました。でも、「自分の目の黒いうちは例え10億積まれても売る気はない」と追い返しました。海を守るため、家族を、子どもを、孫を。そして、働く漁師仲間を、町の町民を守るために、自分がここで売らずに頑張っている限りは、絶対大間原発は建たない。そういう思いで闘ってきました。
平成8年に共有地裁判があり、その裁判に敗訴し、母の土地は飛び地になりました。原発敷地が138万㎡ですが、そのど真ん中に僅か1万㎡の母の土地です。敗訴したことで全部、フェンスで囲まれた状態にあります。そういう状況の中でも、私は母の意志を継いでいきます。母は生前「子どもたちを呼んで、この場所で遊ばせるんだ。今の童はダメだ。テレビゲームばっかりやって。外で遊んで、転んで膝を怪我して、鼻血を出して、自分でどれだけ痛いかと痛みを感じねば駄目だ。そうすれば、大人になっても相手を慈しみ愛することも出来る。そういう童に育てねば駄目だ」そう語っていました。母の夢は叶えずに他界しましたが、その意思を継いで「あさこはうす」を、子どもたちがのびのび遊べる、心を育て、感性を育てる場所にしようと計画を進めております。
「あさこはうす」を、皆さんで、子どもたちを守るために、日本の子どもたちを、世界の子どもたちを守るために、環境づくりをして遊ばせたいと思います。そのことは、日本だけじゃなく、世界にも通ずる反対の活動だと思っています。原発はつくらせない。大間原発はどんなことをしても。これ以上、一基たりとも増やしてはならない。今ある原発は絶対動かさない。そうすることで、私たちは安心した生活が出来るんです。母が言ったように、「金はいらねぇ。食えるだけでいいんだ。贅沢しなければ日本は食べ物もある。海もあれば山もある。畑もある。」生活できるんです。我慢できるんです。5年、10年かけても、安心した環境づくりが出来て、安心した生活が出来れば、私たちは我慢出来るんです。そういう国民だと私は信じています。皆さんも色んな意味で我慢とか節約とかあると思いますが、私たち一人ひとりが頑張ることで、絶対動きは変わります。枝葉を広げ、大きな力になると信じています。子どもたちの将来、未来を守るために、私たちが責任を持っていきたいと思います。皆さんと協力してやっていきたいと思います。


福島市から自主避難、「みちのくの会」副会長 渡邉恭一さん
今日は一人の親として、福島市に住む普通の家庭に何が起こったのかをお話します。福島市は、第一原発からちょうど60㎞の地点にあります。札幌市も泊原発から60㎞位だったと思います。3月11日、震災が起き、翌日、原発が爆発しました。避難区域は10㎞、20㎞と増えていきました。
3月15日の夕方、一生忘れられない、気持ちの悪い雪が降りました。その雪に汚染物質が入っていると薄々分かっていたので、そう思ってしまったのかもしれません。16日、福島県から発表があり、案の定15日夕方から毎時24マイクロシーベルトという数字でした。避難しようと思いましたが、当時、福島市は地震の影響でライフラインが止まっており、ガソリンスタンドも閉まり、家の車はガソリンが無く避難できませんでした。交通機関もダイヤが乱れて、避難しようと思ってもバス停で1~2時間待たねばならない状況だったので、私の判断で屋内退避ということにしました。
3日間ぐらいで福島市は積算線量が1ミリシーベルトを超えました。その後、4月はじめに、小学校が普通に始まり、4月末に小中学校の暫定基準値が発表されました。それは毎時3.8マイクロシーベルトという基準でした。私は、その時までは日本という国を信じていました。当初、最初の3日間で、一般公衆が浴びて良い積算線量で年間1ミリシーベルトという基準を超えてしまったんですが、当時は滅茶苦茶な状況だったので、いつか国は何とかしてくれるだろうと思っていました。しかし、結局のところ4月末まで何もして頂けず、3.8という基準だけが出たので、その時、私は日本という国が見えました。これは何も期待できないと。その時、避難を決意しました。その頃、私の長男が当時中学1年生でしたが、ネットで情報収集して「父ちゃん、避難しよう」と言い、下の子2人はずっと悩んでいましたし、親としても大人の事情があり、ちょっと厳しい状態でしたが、長男がそう言うなら、後々何かあった時に、長男に言い訳が出来ないと思い、そういうのもあって避難を決めました。
6月15日、フェリーで札幌に避難しました。長男があれほど避難しようと言っていたにも関わらず、船の中で泣いていた姿が印象的でした。その後、札幌の生活が始まりましたが、札幌は皆さんは普通に暮らしていたので、凄くホッとしたのを覚えています。長男は、最初半年の間、少し引きこもりがちで体重もかなり落ちました。福島の友人と毎日、スカイプで話していましたが、話が分断というか、割れてしまうんです。長男にしてみたら「福島市は危険だから避難しよう」と。でも、福島市に残っている友人たちは「何言ってるんだ。うちの親父は大丈夫って言ってる。お前がおかしいだろ」と。ずっと議論を続けていますが、議論にならないんです。どっちかが心を閉ざす、という状況です。学校に行ってもそういう話は出来ず、そういう感じで引きこもりになってしまった。今、長男は、何か吹っ切れたらしく、生き生きと札幌で暮らしていますけれども、どこかで折り合いをつけていると思います。「福島の友人とは、放射能の話はしない」「札幌の友人とも放射能の話はしない」といった具合にです。それは大人もそうです。私もそうです。福島に子どものいる友人がいますが、放射能の話はあまりしません。放射能のリスクに関して考え方が違う相手と、放射能の話をするとぶつかってしまうからです。そんな感じで、折り合いを付けつつ暮らしています。
札幌のとある病院の先生のご厚意で甲状腺検査をしました。初年度は問題ありませんでしたが、昨年2回目を受けさせて頂きましたら、手放しで喜べる状況ではありませんでした。ただ、直ぐにどうこうという訳でもないです。経過を見ていくしかないんだなと思っています。それでもやはり親としては心配です。私の子どもたちは当時3か月線量の高い福島市にいたので、甲状腺がん以外の病気も心配です。しかし、それでも3か月で出られたので、まだ良いかなと思っています。
私は、福島にいる時に、児童センターでボランティアをしていました。私のいた地域は、凄くコミュニティが厚く、大人たちも子どもたちの顔を覚えているし、子どもたちも大人たちの顔を覚えていて、地域で子どもたちを育てているような場所でした。そんな中、原発事故が起き、避難するときはその子どもたち全員でと思っていましたが、それも出来ず、我が家だけ避難という形になってしまい、それが非常に今でも苦しく、ずっと私の胸に突き刺さっています。私の子どもたちの記憶は少し薄らいできているようです。しかし親の方は、2年経っても全然変わらず、風化するどころか、何も変わらない状況に、うまく言えませんがストレスのようなものを感じています。先の見えない重い感じが漠然とあります。本心で3.11以降は笑えなくなってしまいました。
最後に、自分の子どもたちに何が残せるか。今回の震災がきっかけで本気で考えるようになりました。どこかで線引きしてストップさせないと原子力発電は止まらないので、本当に微々たる力ですけれども、皆さまと一緒に頑張っていきたいと、心の底から思います。ありがとうございました。


核廃棄物施設誘致に反対する道北連絡協議会 代表委員 久世薫嗣さん
幌延深地層研究センターで「地層処分」の研究をしている日本原子力開発機構の話をします。今年2月、幌延深地層研究センターで水漏れとプロパンガスが坑道から非常に多く排出されました。それは一週間後に公表されました。東海村の事故は1日半後に公表されました。この時排出された放射線の量は1,000万ベクレルです。毎日、福島原発から出ている量の一年分が一瞬で出たわけです。しかし、国は「全く問題ない」と「被害もない」と言いながら、現実には54名中、33名の作業員が被ばくしました。こういったことをやる組織が放射能を扱っているんです。
もう一つ、もんじゅは1万ヵ所の点検漏れがあって、一時停止しています。普通では考えられないことですが、要するに彼らは全く何もやっていないんです。その人間が、原子力の後始末をやろうとか、あるいはこれから再稼働しようとか言っている現実を、きちんと見極めて欲しいと思います。
特に、「核のゴミ」の問題は、福島原発事故以降、日本には大量の使用済み燃料があることが、はっきりわかったのです。特に4号炉においては、1,000本以上の使用済み燃料があります。しかも、非常に不安定な状態で今もあるわけです。「核のゴミ」の問題については、原子力開発機構とNUMO(原子力環境整備機構)、原環センター、原環センターは電気料金から廃炉にする費用を積み立てている団体ですが、この三団体が中心となってやろうとしています。ところが、変動帯の多い日本において、地層処分が出来るという保障は一つありません。
昨年9月11日、日本学術会議が「日本で地層処分は出来ない」という結論を出しています。もう一度見直して、総量規制をしてから考えるべきではないか、しかも、地上で暫定的な保管をしながら「核のゴミ」の問題を考えたらどうかという提案をしています。それに関して、国も原子力の関係者も全く無視しているのが今の状況です。
今回の3つの事故を考えると、私たちは、原子力機構は組織的に解体しなければならない、研究者は研究するに値しない人間だということをはっきりとさせるべきだと思います。その後で、廃炉の問題を改めて検討するべきだと思います。
このような中で、現実に幌延では、「研究が終わったら『核のゴミ』を何とか受け入れようじゃないか」という動きが出てきています。全く許せないことですが、これが現実です。一番恐ろしいのは、今の政府が参院選後にも、全国の自治体に使用済み核燃料処分場の候補地の申入れをするという動きです。真っ先に狙われているのは、もちろん幌延です。何としても、その動きを止めたい。
北海道では、大間原発の建設、泊原発の再稼働、『核のゴミ』の3つの問題を抱えています。もし、このまま北海道民が何も言わなくて、何もしないということが続くと、北海道を破滅させることにならざるを得ないと思います。どんな小さな力でも結構です。皆さんで出来る力を合わせていけたらと思います。